Episode 08:恋人未満のお別れ

★パメラのルームメイトのルビィ
しかし落下速度が物理的に正しいそれではないことにパメラは気づいた。ゆるやかにしてまた浮遊感のあるこの落ち方は―パメラは海中のダイバーさながらに手足を動かしながら下降していく。
(これは夢...あたしは夢を見ているんだ―早く、早く、目覚めなきゃ―)
「パメラぁっ!気づいてくれたのね―よかった...よかったわよぉ」
と、視界にルビィの泣き顔が飛び込んできた。
青い瞳は涙に濡れて、しばたたくまつ毛の美しいこと......ブロンドの巻き毛を顔中に感じながらパメラは声を振りしぼる。「あたし...生きてる?」
「脳振とうを起こしてるだけだろうって、ウェイト博士があんたをここまで運んでくれたのよ!」
なんと......そうか、作画の依頼を断ったあと、あの先生をお見送りしようとしたのが運の尽きだったとは――。
「その......博士は?」
「今大家さんのところへ電話を借りに。救急車を呼んだ方がいいって...」
それにはおよばないと、パメラはルビィに頼んで救急車を断り、ウェイトにもお引き取りを願うのだった。
日が暮れる頃にはいつもの感覚を取り戻しており、こんな事態におちいったわりには......あの不思議な天使の夢見のせいだろうか、身も心も落ち着いているパメラだった。(アークのことを話したら......ルビィは何と言うだろう?)
しかし今宵のみならず、パメラとルビィの部屋にぎくしゃくしたムードがただよっているのはもうここ数日来のことであり――ルビィが提案してきたロンドンの市街地にあるワンランク上のアパートメントへの引っ越しを、パメラが拒み続けてもう一か月近くになる。
ルームシェアを始めた当時はそれぞれ歌に絵に、一種ショービジネスという世界の扉を開け放した、磨けば光る卵のごとくにまばゆい2人だったことだろう。
ルビィがロンドンきっての有名劇団ライシーアム・カンパニーに入団してからは、ほぼトントン拍子の急成長で、今では主役を張る存在にまでなっている――他方、画家としてのパメラに未だ栄光は訪れていなかった。
「あんたはスター街道まっしぐらなんだから、それなりの暮らしのをするのは当然。行くならルビィひとりで行けばいい、あたしはこの安アパートで充分。あなたの世話になんかなりたくないわ」
「そんな言い方ひどいじゃない......私たちってそんな仲だったの?」
一体全体、どんな仲だと言えるのか――いや、それが問題の本質なのか?
キスをしたり抱き合ったり、子猫のようにじゃれあいながら眠りにつくのはいつものことだったが、その夜、パメラをいたわりながらも、今までにないお休み前の儀式を求めて、ルビィが鋭い爪の立て方をしてきたことにも事の次第の責任があっただろう―パメラはぴしゃりとルビィをはねつけていた。
「わかりました、あなたの気持ちは」
ルビィは長い髪に手ぐしを入れて整えながら、部屋の反対側にある自分のベッドに戻っていった。
「ごめん、ルビィ、だってあたしは病み上がりなの...」
「そうじゃないでしょう、あなたにとって私は友だち以上どまりなの。愛がない人に、私こそわるかったわよ、ゴメンなさいね」
そのままルビィはパメラに顔を見せることなく、自分の毛布にくるまっていた。
(前にも同じようなことがあったっけ―)
その時のパメラはまだ十代で、相手も同い年の男の子だったものだから、きっともう少し成長して......そう大人になれば、また何かが変わってくるのだろうと淡い期待を抱いてきたものだったが......今や彼女も22才。ターニングポイントはとうに過ぎているのだ。
(多分、あたしが少し、おかしいのだ)心なのか身体なのか――歯車に何らかの異常を認めざるをえない彼女でもあった。
それでも今日あの階段から落ちて気を失いながら見ていた夢の話を打ち明けられるのはやっぱりルビィだけ――パメラは必至の思いでルビィの気持ちをつかまえようとする。
「今日ね、私が気絶してたとき...」
「知らない」と強くパメラをさえぎってから、ルビィがほがらかな声を出してきた。「そういえばあなたのウェイトおじさま、ちょっと素敵よね?」
「なによ、あなたの...って。ルビィがウェイト博士を下までお見送りしなさいって言ったんじゃない」
「近くで見たらとぉってもダンディだったわー物腰もやわらかくて紳士なの...フフっ 私気に入っちゃった」
「あっそーですか、あなたのほどのお綺麗な方なら、カンタンに落とせるんじゃあないの?」
「そうね、 私がんばってみる」
「何それ、あんた誰でもいいわけ?」
「パメラが私を振ったんでしょうが。私がどこの誰とどうなろうとカンケイないでしょう...でもやめておく。だってウェイトさんて、お金なさそうだもの。あなたの知り合いって、お金ない人ばっかよね」
「はあ―? あったまにきた」
バフっと音を立ててパメラが投げた羽根枕をブロンドの後頭部で受けると、ルビィは強く宣言するのだった。「私もう明日からテリーのところで暮らす。そこで新しい部屋探しするから! 荷物は追々取りに来る」
テリーとは、パメラとルビィ2人共通の友人で、これまでにも、仲たがいした2人の間に立つ役割をしばしば担ってきた存在だ。どうにでもなれ、勝手にしろと、もはやパメラの頭も語彙力欠乏症だ。(ちょっときれいだからって鼻にかけてりゃ、数年で落ちぶれちゃうかもね――そうなってあたしを頼ってきたって知らないから)
「どうぞご自由に!」
≪そんな自由はぼくらにはない≫
夢の中のアークとの会話がパメラの頭をよぎっていた。
自由って何? 自由と勝手は違うわよね? 勝手にされるのはごめんだけど......あたしにもルビィにも自由はあるはずでしょう?......どの道、2人はもう終わりなのか――。
その後は会話もなく、パメラが仕事を探して外回りに出ているときを見計らいながら、ルビィが身辺整理を済ませるというやり方で、3日もすると彼女の荷物はほぼほぼに一掃されていた。
小さな出版社や広告会社をあちこち回れど、ひとつの仕事にも恵まれなかったパメラが重い足を引きずって帰宅すると、居間もキッチンもすっかり景色が変わってしまっていて、静けさと共にパメラを迎え入れるだけだ......
「ルビィ......」日暮れ時の室内の薄暗がりにこのまま溶け込みたくないと、パメラは思わずつぶやいた。
「それを愛...とは言わないの?」
「アーク!」
顔を上げると、パメラは部屋の片隅にあの大天使を見ていた。ぼうっとした光に包まれながら、むじゃきに笑っているではないか。
「ルビィを......美しい、あなたのルームメイトを連れ戻してきてさしあげましょうか?」
「できるの?」
「そうだね......彼女の夢の中に入り込んだり、記憶を刺激することあたりで、今の状況を変えられるかとは」
はあとパメラはため息がちになる。「...いや、結構です。彼女は今そんなことより、もっとしっかり女優としての地位を確立させなきゃ」
「......やっぱり愛だよね」
「いいえ、これは心と身体の問題なの。子どもにはわからないわよ」パメラはぷいとそっぽを向く。
「おっとそうやってすぐに痛みを感染させようとする...人間のわるいクセだね」
「さぶ...今日は冷えるわね、もっと部屋を暖めなきゃ...っと、アークはお茶飲める?」
「つき合うよ」
ストーブに火を入れて、そこで湯を沸かしながら、パメラはぽつりぽつりとことばをもらしだすので、アークも暖を取ろうと――そもそも天使は寒暖の影響はないものだが、パメラに精一杯寄り添う姿勢を見せようとひざをかかえて座り込んだ。
「心も身体も許し合えるという、それが人間の愛っていうことになっているらしいの」
「ああ、やっかいだよね」
「ルビィはね、美しい子だけれど、そのせいで、心も身体もすごく、傷つけられてしまった過去があるのよ......男の人がダメなんですって」
「なるほど」
「あたしは、気持ちの上では自信があったの、彼女を決して傷つけたりしないって、守っていってあげられるって。でもあの子は人肌が恋しかっただけなのかも......バカみたい、あたしは彼女を運命の人だと思ってたなんて」

「恋は盲目っていうじゃない。友だち以上で、恋人未満てのは、人間にとって一番ときめいているとき......まともじゃいられないのかも」
「そうね......ルビィはまたね、あたしの母さんに似ているの。母さんは女優だったのよ、そりゃもう小さな町の芝居小屋の、もしかしたらちゃちなダンサーみたいだったかもしれないけれど。父さんは、今でいう出版社の走りみたいな印刷会社の跡取りで、ちょっとした小説も書いていたりしたんだって。劇団向きの脚本を書いている内に母さんと知り合っていっしょになったらしい」
「パメラにはぜひ、そのクリエイティブな資質を発揮していただかないと...!」
ふふんと肩をすくめるだけのパメラ。「あたしにはルビィがいればそれでよかったわ......お母さんみたいだった。ルビィはいろんなあたしを受け入れてくれたっけ」
「人生で最初に出会った女性からは、誰もがその人生を左右されるほどの影響を受けると、人は言われているよね」
「そう.....あたしはどっちかっていうと父さん似だったのかも。ものを書く方が性に合ってたのね、小説や脚本も勉強したけど、認められたのは絵で――地方新聞のコンクールでいくつも賞をとったものよ。専門学校を卒業して、ロンドンに来て、大家さんの紹介でここでルビィとルームシェアをはじめたの」
パメラはカチャカチャと食器を触れ合わせながら茶葉を用意しながら続ける。
「あの頃はもうまさにバラ色だった......だけど、彼女はどんどん役者として大きくなっていっちゃって...いや、あたしのほうが画家としては鳴かず飛ばずってね。その上ルビィと離れている時間が増えていくし...辛くて、不安になってきて...なんかもう、精神的にまいっちゃったの」
「お湯がわいたみたい」
夕日が沈み、真っ暗になった部屋にストーブの火だけが赤々と勢いよく照り輝いている。客人のために立ち働くパメラのシルエットがまるで老婆のようにゆっくり動く。アークにはミモザとライラックの絵がついたカップを選んであげるのだった。
「はい、熱いから気をつけてね」
「ラム酒を入れてもらってもいい?」とアークが甘えたように言って、パメラの様子をうかがう。
パメラがなみなみと紅茶を注いだカップを自分のほうへ寄せて、アークのために新しいカップを用意してから、気だるそうにキッチンからラム酒の小ビンを取ってくる。「はい…」パメラはアークに小瓶を渡しながら、彼に寄り添って座り込んだ。
「大好きだったルビィ…彼女は特別だったのに......やっぱり、あたしはおかしいの? 男とか女とか性別がない世界があったら、あたしは誰かに愛してもらえるのかな......あたしはずっと一生ひとりぼっちなの...?」思いを吐き出したとたんに涙があふれてきては、ひざを抱え込むパメラ。
アークはさほど表情を変えずにパメラが用意したティーカップにラム酒を注ぐ。「ま、今日のところは飲みましょうよ」
差し出されて一気に飲み干すと、パメラはもう泣きながら眠りにつくだけ―

ふと夢落ちしながら、彼女は空中をただよっていることに気づく。
「あらら、あたしってば浮いてる? ここ空?? アークはどこ??? わわ落ちてる、落ちてるわ!」
重力の法則にしたがい、パメラは頭から真っ逆さまに下降していくのだった。
続く Episode 09
