Episode01:1900年最悪のクリスマス
クリスマス・キャロがあちらこちらでどこからともなく耳に流れ込んでは間奏曲と化し、きたる大舞台に誰もが胸を高鳴らせるこの時期に――最悪だ――いやそんなものじゃないだろう。
「糞ッたれ!!」とアーサー・エドワード・ウェイトは肩で息をしながら毒づいていた。
居間のマントルピースの上に順序よく並べられていたフォトフレームも花びんも砕け散り、テーブルにも床にも陶器やらガラスの破片が散乱し、足の踏み場もない光景を目の当たりにして、自らの獣性というものへのイラ立ちから、ウェイトは視界に入ったまだこわされずに居残っていた卓上のティーカップを手の甲で勢いよく払いのける――打ち砕かれる陶器の鋭い音が鳴り響いては、また次に怒りの矛先を向けられるものを探させるのだからやっかいだ。今少しおさまりかけたじゃないか......もうここでやめなくては......
あれだけ散々に暴れまわったのだから致し方あるまい……汚れたカーペットやクッションは、どうにかして回服させられるすべがあるのか否か――「俺の知ったことか......!」
この場を立ち去るしかないだろうと、ウェイトはふらふらしながらもいったん外へ出ようと玄関先にかけてあったマントをはおろうとするも、小一時間前のできごとが、帰宅し、妻のエイダにコートを手渡した時のやりとりが否応なくほうふつとされた――そう、一人娘のシビルに今年のクリスマスプレゼントは何がいいかと、エイダに持ちかけただけのウェイトだった。
ちょうど今年で勤続10年――大英博物館に司書として勤めていたウェイトだったが、定例会議が中止になったため、午後のまだ明るい時分に早めの帰宅が叶ったところで、彼はただ一方的に地獄へ突き落されたのだ。
「お願い、貯金を少しおろしたいの」
「何に使うんだね?」
「除霊してもらいたいの」
「じょ......除霊だって?」
エイダのことばを耳を疑う思いでウェイトは聞き返しながら、手早く洗面台で手洗いを済ませると、話を聞こうとダイニングテーブルに着席するのだが、エイダのほうは一向にそうする様子はなく、ただもう立ちすくんで両手で顔をおおっている――「エイダ、どうしたんだ? 君らしくない、様子が変だぞ...」
早めの帰宅を果たせたのだから、週末のクリスマスをどう過ごすか、どんなケーキを焼いてくれるのかとか他愛もないながらも、いつものようによく動く黒めがちな瞳をくるくるさせながら話してくれることを期待していたのに――彼女が目の前で涙声をふるわせている。
「ロンドン駅の近くでサロンを開いている有名な霊媒師にみてもらったの。あなたはご存知ないでしょうが、ジョン・ディーⅡ世に......シビルのことを霊視してもらったの。とても重度だと言われたわ、でも除霊をすれば治るって。だからねえお願い......」
「君は正気か?!」
「わたしじゃない、シビルが異常なのよ!? と殺された家畜の低級霊がシビルに憑依しているって、ジョン・ディーが......」
「いい加減にしなさい!」ウェイトが握りしめたこぶしをテーブルを打ち付け、びくりとエイダが肩をすくませる。これまでも何度か夫婦の意見がぶつかり合ったときに、これを合図にエイダが引き下がるのが常であったが、しかし今日の彼女は違っていた。
「あなたに、私をどなりつける資格がありまして? 口を開けば『仕事だ、原稿だ、締め切りだ』そればっかりで家のことは放ったらかし......これまでどれだけ私が...私とシビルがどんな思いでいたかをおわかりになる? もう、私はあなたについて行く気はありませんので」
「一体何なんだ...」ウェイトは舌打ちして相手にするものかといったそぶりで卓上にあった新聞を広げ、早口でまくしたてる。「君やシビルのために仕事をしてきたつもりだが? まあ、ついてこないのは結構だが、君には他に行く当てでもあるとでもいうのかね?」 ふと、ウェイトは口をついて詰問していた。「ジョン・ディー...と言ったかね......その霊媒師をお前がどうやって知り得たんだ?」
「......」
「まさか、あのレッド・ローズの交霊会になど......お前、足を運んだりなどはしていないだろうね?」
ただうつくむだけのエイダを見るや、ウェイトは新聞紙を放り出して足早に2人の寝室に駆け込み、ベッドサイドの机やクローゼットを開けては中をひっかき回しだす。
「やめて......やめて下さい!」
エイダが身体を張って止めに来るのが動かぬ証拠なのかと、ウェイトはもしそれがどこかに隠されているのであればそれはもう最悪の事態であり、あってはならないそれがないことを祈る気持ちで 彼女のコートから上着からワンピースからすべてのポケットに手を入れてつぶさに探る......「何てことだ......」ウェイトの指先がたどり着いた小さな包み紙を開けば白い粉が――コカインだ。
「返してっ」
ウェイトが手にしている包みを取り上げようとするエイダの腕をつかむと、ウェイトはもう力まかせに彼女をゆさぶっては鬼の形相だ 。「レッド・ローズの会はたちの悪い社交クラブだ。交霊会にはエリオット・スタインレーという若い男がいたんじゃないか? 奴は主催者の犬だ。交霊会は奴らがカモを探すためだけの場なんだ。身持ちのよさそうな女性客と関係して、不貞をネタに金を巻き上げるためのだ......あの薬中連中と関わるとは!」
よく見れば、いつものエイダにはあり得ない、うつろな瞳に手入れもされていないもつれた髪、襟足がよごれたブラウスも......すでに連中の餌食と化した烙印なのか......ウェイトは絶望の淵に立たされた思いだ。
「さっき君が言ったことは、君がわたしについてくる気がないということは、それはつまり、君はエリオット・スタインレーと関係をもったということなのか?」
首を振ることのないエイダのほほに、ウェイトの力まかせの平手打ちが入っていた。また反射的に彼女の髪をつかまえて殴打するウェイト――悲鳴を上げて泣き叫ぶエイダに加え、ウェイト自身もわけのわからない獣のような声を上げては泣きわめく有様で、あとはもう自分の力尽きるのを待つしかない彼だった――。
「お父さんやめて...!」
我に返ると、娘のシビルが青い顔をして呆然と寝室の戸口に立ち尽くしているではないか。
かわいそうな愛娘よ――こんなあばずれな母親がいたらどこかおかしくなるのも当然だろう。ウェイトはシビルを連れてこの家を出ようと、エイダから離れて娘の手を取ろうとしたのが、彼の手は当の娘によってぴしゃりとはねのけられていた。
「シビル?」
「ひどい......お母さんになんてこと......」
「いや、わるいのはお母さんだ」ここは間違ってはいけないのだと、ウェイトはしっかりと娘の目を、半ばにらみつけて言った「お前は何かを患っているらしいが、お前も何もわるくはないんだよ。ただ、もうお母さんといっしょに暮らすのはやめよう......そうすればきっと、お前もよくなる...」
「イヤ! わるいのはお父さんだもの、あたし、あなたの子供になんか、生れたくなかった! あんたなんか......あんたなんか悪魔よ!」
「な......なんてことを、あ、悪魔だって? この私が......? シビル、取り消しなさい、謝りなさい......ちゃんと謝れば、お父さんは許してあげるから...」
「悪魔!」
全身から血の気が引くと同時に頭には血がのぼるという常軌を逸する経験と悪寒――「畜生!」
その後のことはまったくウェイトの中で空白の時間と化し――気がつくと目の前には、妻のエイダと娘のシビルがともに口から血を流し、顔を貼れ上がらせて床に倒れ込んでいるという地獄絵図さながらの光景だ。
一体全体どうしてこういうことになったのか? 肩で息をしながら寝室から出たウェイトは夕日が差し込むリヴィングルームへ、そこに続く書斎へと進みながら手当たり次第にモノを壊し、投げつけ、「畜生!」「許さん!」そればかりを繰り返していた。
家の中の目に付くものはすべて破壊しつくし、ようやく体力も尽きようというところで、ウェイトは無意識の内に外へ逃げ出そうとコートを手にしていたのだが、「外へ出たところでどうなる? 一体これからどうすりゃいい?」……またコートをかけ直して、書斎にフラフラと戻って行くのだった。
「死ぬか......」
まさかこの拳銃が役に立つときがくるとは。ウェイトは書斎の引き出しの奥から小型のリボルバーを取り出していた。エイダは裕福な家庭の一人娘で、かなりの持参金ともにウェイトの元へ嫁いできたのが13年前。嫁入り道具の衣装箱の中になぜかこの拳銃が入っており、エイダを溺愛してきたのであろう夫妻の面影をかいま見たものだったが――。
誰でも適齢期になれば結婚して子供をもうけて幸せになるものだと、それが人間の普通の、一般的な幸せな人生というものなのだろうという愚かな刷り込みをもはやウェイトは薄笑いを浮かべてあざけっている。
「くだらん、どいつもこいつも......人間などという生き物はまったくもってくだらん奴ばかりだ」ウェイトは拳銃に弾を込めるとこめかみに当て、眉間を寄せて目を閉じた――そして鳴り響く一発の銃声――。