Episode04:Fasting girl/断食する少女
「シビル、具合はどうお?」
白いブラウスにタータンチェックのスカート姿の彼女がひょっこり自室のドアをノックして顔を出すものだから、シビルは驚いてベッドから身体を起こす…不登校児の昼下がりは読書と昼寝三昧なのだ。
背格好はシビルと同じくらいだが、幾分ふくよかな少女はクラリス― 相変わらずポニーテールを頭の左右に作って、スカートに合わせたチェックのリボンで結んでいる―5月に入っても一度も登校していないシビルを心配して顔を出してくれたのだろうと、裏で母親同士のやりとりもあったことなども推察できる程度の、2人はクラスメイトであり幼なじみでもあった。すっかり学校から足が遠ざかっていたシビルにはやたらとクラリスの笑顔がなつかしくも、まぶしく映っていた。
「勝手に入ってきちゃった」とクラリスはペロリと舌を出しつつ、屈託なくシビルにの隣に腰を下ろして身体を預けてくる。「―あなたが学校にこないとさびしいわよぉ!」
「クラリスにはたくさん友だちがいるじゃない、誰とでも仲良くなれるし、私なんかいなくたって、ゼンゼン構わないでしょ」
「あらそれ焼きもち? やくぐらいならたまには出ておいでって…あなた、ちょっとやせたんじゃない?」
そう言いながらシビルの肩を抱いたかと思えば、人差し指でほっぺたを軽くつついたりなどしておどけてみせるクラリスは いつだってこうしてスキンシップをとりながら仲間のふところに入り込んでしまう―シビルは率直に彼女がうらやましかった。まるで無邪気な子猫みたいに...誰からも愛される彼女の立ち居振る舞いはもう芸当さながらなのだ。
物心ついたときから仲よくしてきたクラリスだけど…今じゃ私たちはもうなんだか全然違ってしまっている…そして、誰もかれもが結局は私とは全然違うんだ―シビルは自分の中にたちこめる暗雲をかき消すように話題を変えた。
「私最近、何を食べても吐いちゃうの」
「え"―――??? そりゃ大変じゃない、どこがわるいの?」
「何だろうね、何だと思う? お母さんはあたしにわるい霊が憑依してるって。お父さんはそうじゃないって…そのことでお母さんを怒るし責めるし…2人は毎日のようにケンカばかりよ…どの道、2人はもうおしまい。離婚するかもしれない」
「まさか、ケンカしたぐらいで―」
「ここだけの話…2人の寝室って別なの。お父さんてば自分の書斎で寝てるの、もう1年以上ずーっとよ」
あららとクラリスは目を見開く。「それは…ご愁傷様かも。あなたも辛いわよね…でもね、うちの両親だって仲がいいとはとてもとても! パパには外におめかけさんがいるの」
「えっそうなの?」
「ほら、うちのパパは婿養子でしょう。ママはすんごく上から目線で当たりがきついの...あれはダメこれはダメ、汚いうるさいうざいってウチじゃもう『女帝』よ」
「お母さんはおめかけさんのことに文句を言わないの?」
「言わない……誰も言わないの。おじいちゃんもおばあちゃんも。昔はおめかけさんがいるのは当たり前みたいなこと言って。うちは代々商売をしているから、ちょっと独特なのかもね」
「なるほど、一族容認ということね」
これまでもクラリスとの会話の中に、羽振りのよい祖父母や親せきたちの話がしばしば出てくることをシビルは思い出した。裕福な商家とはいえ…いや、だからこそか、複雑な内情とやらがあるってところなのだろう。
「女帝みたいな母親か―いいじゃない」ベッドの上で両腕を高く上げてうーんと伸びをしながら無理やり発声するシビル。「男尊女卑の世にあっては…希少価値のあるお方よ、あなたのママは」
「いやいや!」クラリスは眉をひそめてぶるぶると首を振ってはイヤさ加減を強調する。「ママにはお兄ちゃんも頭が上がらないの。男どもはあたしの意のまま、この世はあたしのためにあるのよってな勢いで、肩で風切って街ん中も歩いてるんだから…あのヒトは。いくら母親でも...女としてああはなりたくないわ―めちゃおデブだし」
「いや、むしろうらやましいわ―うちのお母さんはお父さんの顔色ばっかり見てる。生活力ないから仕方ないって感じ? 私はああはなりたくないわ」
「あらぁ、シビルのママはスタイルもよくて、センスもいいわ―いつ見てもきれいで、お上品。素敵!」
クラリスの口調からおだてではないことが伝わってくる。確かに、 ブロンドヘアをいつもきちんと巻き上げては色白ながらも薄化粧をほどこすことにも、コルセットを身に着けることにも手を抜かない自分の母親を、よその生活感がにじみ出た中年女性たちとは一線を画すると、幼い時分は自慢に思ったこともあったシビルでもあったが、そんな外面が何なのだと彼女は吐き捨てた。「あんなの…見せかけだけだから―中身はゼンゼン違うって」
「その見せかけの部分で、私たち女性は存在価値を決められてしまうという、これが現実なのよ」
「人間は中身でしょ?」
「あのね、私結婚するの」
「えっ……うそでしょ?」
「あ、そうだチェスやろう! 負けたほうが勝ったほうの言うことを聞くやつ。私、あなたの好きな男の子のことが聞きたいんだけど、どうお?」
「い、いないよ、そんな男の子」
クラリスはシビルの部屋の片隅にあったチェス盤を持ち出してはさっそくベッドの上に広げている。
「いますでしょう? 3月の終わりごろ、公園の黄水仙の池の近くで、男の子といっしょにいたところ、目撃しちゃったんだから」
「そ、それ私じゃないよ」
「確かに、あなたです。私だけじゃなく、他のみんなも目撃していましたので! ねーあれは誰? 学校じゃ見ない顔…ちょっと汚い恰好していたけど、顔はイイわよねってみんなで話してたのよん」
鼻歌交じりにチェスのコマを並べながらクラリスが語りだす。「…私のお相手はね、遠縁の大規模農場の次男坊ですって。いいなずけがいたなんて、私もついこの間聞かされたのよ―さあ、白黒どっち?」
親が決めた結婚話にはじまり、学校を卒業した後、女子はいかにして身を立てていくべきなのかなどをととつとつと語りながら2人はゲームを進めて、結局話題はシビルの片想いの相手が誰なのかになり―たまたま勝負がついていた。
「チェックメイト!」ほうらねとクラリスが沸く。「あなたはルークを捨てでもクイーンを守るべきだったんだわ、さあ、公園で会っていたあの男の子は誰なの?」
来年、学校を卒業すると同時に、会ったこともない男性に嫁がなければならないというクラリスを前に、シビルはいつにない大盤振る舞いで ジャックとの出会いから一方的に別れを告げられた経緯をかいつまんで話して聞かせた。するとクラリスは夢見心地な笑みさえ浮かべてつぶやくのだった。「ステキ~」
「はあ? 何が素敵なの???」
「そのジャックは、スラム育ちの彼だから、シビルとは釣り合わないと思って、自分から身を引いたんでしょう?!」
「え.…いや、それは少々ご都合主義的な考え方では…」
「シビルだって彼のことまだ好きなんでしょ? あきらめちゃダメよ、2人でがんばろう」
「何をがんばるの?」
親が決めた結婚から逃れるため、何としてでも卒業までに恋人を作って2人で駆け落ちするんだと意気込むクラリスが、シビルの恋愛成就を鼓舞して帰って行った後―忘れかけていたジャックの存在に再び心をかき乱され、シビルはキッチンに駆け込むとただ水をグラスに注いで飲み干した。
朝から何も食べていない彼女がここで何か口にすれば歯止めが効かなくなるのはもうわかり切ったことだと、キッチンとリヴィングを行ったり来たりしては、飢餓状態の身体を持て余すばかりのシビル――ああどうしよう! クラリスがあんなことを言うから―余計に混乱するじゃない! ジャックが自分から身を引いた?―そんなこと考えてもみなかったけど…もしそうなら、ニューカッスルの石炭工場へ行くっていうのはウソってこと? ウソならジャック今も未だ彼の家にいるってことよね.…家に行ってみればわかること? いやそもそも、そんな自分に対する恋愛感情なんてものが彼にあったかどうかなんて….
空腹で頭はぼんやりするし、何だか自分はもうすでに息絶えて亡霊になってしまっているのではないかとさえ思いながら、ほとんど無意識の内にシビルは廊下をつたわりながらふらふらと 玄関に向かい―ドアを開けると、日暮れ前の弱い日差しの中にその姿を溶け込ませていった。
その頃、ウェイトとエイダは病院の一室で初老の医師と向き合っていた。
ウェイトにはいくつか病院に当てがあったのだが、エイダの希望でロンドンの大学病院に予約を取り付け、夫婦そろってシビルの代理受診を果たすまでにすでに半月近くもかかっていた上に、予約をしたにも関わらずその日の外来の最後の番まで、待ちに待たされての受診だった。
「拒食症…ですか? しかし娘は膨大な量の...何であれ食べものを、食べ尽くしてしまうのですが...」
「ええ、今はそうでしょう。その内まったく身体が受けつけなくなる症例がほんとんどです。大抵がお嬢さんのような十代前半から後半に発症しています。早い内にお嬢さんを…嫌がるでしょうが、こちらへ連れてきていただかないと….一日も早く治療をほどこさないと、場合によっては手遅れになりますよ」
「手遅れってまさか、命にかかわる病気なんでしょうか?」エイダが顔を曇らせる。
「命を落とすケースはめずらしくありません…何しろ食を拒むわけですからね、慢性的な栄養失調状態が何年も続いて、やがて寝たきりになって…….眠るように息を引き取るケースもあります。その時にはもう体重が20キロを切っているでしょうが」
「……」
息をのんで顔を両手で覆うエイダの肩に腕を回して抱きしめながらウェイトも悲痛な面持ちを医師に向ける。「先生、原因は…一体どうして、シビルはこんなことに…?」
「原因は個別に異なります。まったく何の脈絡もなくある日 突然食事を拒絶しだす子も多いものなのですが…たとえば、動物の死骸がいやだと言だし、まず食肉が食べられなくなり、だんだん一切の食べ物を受けつけなくなったという子もいました。中には、自らを神に捧げるのだと、過激な断食生活に入ったことがきっかけになって、実際に殉教を果たしたという子もいます」
医師は机の上のファイルから何やれレポートを取り出し、要所を拾い読みながら話を続けた。「『Fasting girls(断食する少女たち) 』に関する論文がこの病院の研究者たちによってもいくつか残されているのですが、古くはもう中世にさかのぼります。いわゆる神がかり的な特殊な力を持つという聖女たちが、彼らの能力を証明するために断食に入るわけですね。その延長で多くの若い女性たちが実際に亡くなっているのですが、今では多くの研究家たちが彼女たちに病理を見出しています。中には真の殉教者もいたのではありましょうが、多くはその拒食、無月経という典型的な…そのいわゆる聖女たちのですね、身体的な特徴はメンタルに由来するものであると」
「その子たち同様、シビルが患っているのは身体ではなく、心なのだと…いうことですね?」とウェイト。一方でエイダはいぶかしげな表情を隠せないでいる。
「まず、お嬢さんはには脳下垂体の検査が必要です。ひとことで心の病と言いますが、病巣はもっと深いところに…育った経緯や置かれている環境も含めて複合的に巣食っているとも言われています」
医師がウェイトにしっかり向き合う角度に身体を動かす。「この病は非常に深く、複雑だということをご理解下さい。そして治療には時間がかかります」
「それでも治ると、希望をもってよいのですね?」
医師はうなずきながら夫妻を交互にやさしく見つめた。
「回復していった子たちもいます。が、症例が少ない…未だ解明に至らない、難病なのです。根気よく向き合う必要があります。もう少しお嬢さんのことを聞かせて下さい。娘さんが学校へ行かなくなったのは去年の12月からでしたね?」
「はい、ほとんんど行っていません…でも、もう最初から…小学校へ上がったときから、学校はキライだと、クラスメイトと話をしていてもおもしろくないと…あの子が学校へ嫌々行っていたのは、わかっていました」と言ってエイダは唇を嚙合わせる。
「去年の12月に、お嬢さんに何か あったのでしょうか?」
「私でしょう」ウェイトが間髪入れずに発言したものの、その後を続けるには躊躇があった。「その、手荒な言動に出てしまったことがあり、、私たち家族はその、問題を抱えておりまして…」
すかさずエイダがウェイトの手に自分の右手を重ねて、明確に助け舟を出した。
「主人だけがわるいのでは、ないのです。私にも責任が…あることなのです」
彼女と少し驚いた表情のウェイトの目が合うと、2人の表情がわずかにゆるみ、それがサインになってウェイトは腹をくくった様子で昨年の12月の一件を語りだした。
シビルとジャック
シビルのママ
illustrated by ぼんぼり