Episode06:大人も子どもも愛情飢餓症


 乗合馬車に揺られながら、疲れてうとうとと瞳を閉じるエイダをウェイトは 見つめていた。連れ添って十四年―これまでにも何度も、美しいと、魅力的だと、自分のものだと...見つめてきた妻の横顔が、今はただ愛おしい―せまい車中で抱擁に近い圧力がエイダから加わるたびに、抱きしめてほおずりしたくなる衝動に拍車をかけられながら、すでにエイダの心が自分から遠く離れてしまっているという現実に彼はうちのめされている。

 愛のない結婚が何だというのか? そもそも愛とは何なのか? よくわかるように、納得がいくように説明したまえと、彼は一度、結婚後シビルが生まれてから間もなく、エイダとぶつかった際にそう彼女に突きつけたことがあった。

 エイダは黙りこくり、その話はそれで終わったはずだったが、今やまるでウェイトの胸に突き刺るブーメランだ。なぜそんな言い争いになったのか、それが問題だったというのに、そのときの彼女の思いも聞こうとはせずに、一方的に会話を終了した自分をこの悲劇の淵から救い出さねばならなくなるとは。愛がいかに日常なのかということを、エイダにはいずれ伝え、詫びなければならないだろう―そっとエイダの手を取るウェイト。

 悔いても詫びても、やり直すことなど果たしてできるのか―いや、やらねばならない、これは私の唯一の愛なのだから。太陽が父で月が母だと、シビルのための両者であろうと辛うじて諭したものの、実際にはエイダはもはやかけがえのない存在、私の一部、私の太陽なのだ。他の男がどうだ、占いがどうだ、そんなことは構いやしない。この人をどうか、愛し続けさせてくれ―神よ、母よ、妹よ―どうかわたしを助けてください―今は亡き目に見えぬ者たちにすがる思いとともに、ウェイトは軽くにぎっていたエイダの手に力を込めてしまった。

「着いたの...?」エイダが大きな青い瞳でウェイトを見上げる。

「いや、まだだ…」彼は慌てて手をゆるめ、車窓越しに街灯がともりはじめた薄暗い町並みを見やる。「...あと3マイル程だろう」

「そう、帰ったらすぐに食事にしないと、シビルがお腹を空かせて待っているわ...いっしょに食べてくれるようにね、あなたもきびしく言のではなくて、ちゃんとあの子気持ちを聞いてあげて、ね?」

「わかった...そうしよう」

 がしかし、2人が帰宅した家はもぬけの殻。シビルの姿を探して、ウェイトとエイダはまたまた半狂乱の嵐と化すのだった。




「お、おじさん、誰よ? ここはどこ?!」 


 言われたことを気にするように壁に備え付けられたアールヌーボー調の大鏡をのぞきこみ、「俺まだ26なんだけど...今日はめかしこんでるから...多少、年増に見えちまうんだろう。しかたがない、今日は夜から接待なんだ 」

 つぶやきつつ蝶ネクタイを整え、鏡から振り返りざまに彼は言った。「俺があんたを助けてやったんだ、あんた、イーストサイドのスラム街で倒れてたんだぜ? あのまま放置していたらどうなっていたことやら...あんな物騒な場所で」

 なるほど、クラリスのことばがきっかけでジャックの家があるはずのスラムに向かってしまったんだ―もうろうとする意識の中で、ただ自分自身を重荷にして、ひたすら足を引きずり歩き続けていたところで記憶が途絶えている。

 でも一体、この天蓋つきのベッドは何? やわらかな羽毛ふとんに心地よくつつまれながらシビルが居る場所を見渡せば、部屋中に並ぶマホガニーの家具や調度品はどれも重厚感に充ち艶光りしている・・・小さな部屋だが、明らかに庶民の住むところではないだろう―この男の人は誰? 

 夕方から家を出て歩き回ったあげくに倒れ、薄汚れた衣服やら髪やらのシビルがまじまじとこの自称26才の青年男性に見つめられては乙女心もおだやかではなく―そこへ青年の直球が飛ぶ。

「もしや家出? 死ぬつもりだったとか?」

 言われてシビルはうつむいた。確かに、もうどうにでもなれと、いっそ死んでもかまわないと、自暴自棄になった彼女自身を後押ししていたのは、まぎれもない自殺念慮だ。あわや野垂れ死にという状況から、この青年男性に救い出されたのか―神を見出したい気持ちにかられつつも、いやいや、見ず知らずの人を信用してはいけない―日ごろの父母のことばが彼女の脳裏をよぎり、近づいてくる彼をことばで制していた。 

「ベ、別に、どうでもいいでしょう、あなたに助けていただきたいと、お願いしたつもりもありませんので!」

「は?」青年はあからさまに機嫌を損ねる。「ごあいさつなこった。こっちだってお子様の相手をしているヒマはないんだ。うちの坊やに送らせるよ...家はどこ?」

「自分で帰ります...」と言いながら、立ち上がることすらできずにシビルは頭をふらつかせる。「昨日から何も食べていないだけ...」

「はぁ?」と青年は半ば驚きあきれながら、部屋の外に何やら呼びかけると、しばらくしてメイドたちがパンやスープが乗ったワゴンを運びこんではあっという間に下がっていくではないか―ああ、ハムとチーズ! バラ模様のティーセット! あたしってばもうガマンの限界だけど―

「わ、私、帰ります…」

「あっそ。ま、一人じゃ無理だろう、坊やが戻ったら送らせるから、少し待っといて」

 しかたなくシビルはベッドに腰掛け、青年は机に向かうと、手紙だか書類だかに目を通したり、タイプライターを動かしたりとビジネスマンらしく振る舞いだす。ときおりタイピングの音を響かせながら、それでも青年は少しシビルを気にかけた。

「お茶飲む?」

「結構です」

「強情だねーまあそんなじゃ、親とぶつかって飛び出してきたとか、そんなとこだろ?」

 青年はデスクワークかたわら一方的にとつとつと話し出した。

「俺もそんなだったさ。父親と母親が大キライだった...いや、キライなんてもんじゃない、両親の殺害計画を立てていたくらいだからな」

 ぎょっとして身体をこわばらせるシビル。

「が、とちゅうからバカバカしくなった。あんたも何があったにせよ、そのために死ぬなんてことはやめろ。そいつらを殺すとかもバカだ」

「ば、バカ......」うちの家庭のことなんか知らないくせに…バカ呼ばわりしないでよ―憤る反面、シビルは明確に自分の両親に対する殺意を認識させられている。

「誰もが生まれて死ぬ、それだけっちゃそれだけのバカバカしいもんなんだ......人生なんて。だから、深く考えるな。生きている間は生きろ。親だろうと誰だろうと見返してやれ。そのために生きて、生かすんだ」

「......」 

「あんたも親になんか期待するな。とくにな、今どきの子どもは・・いや大人だってな、一億総愛情飢餓症だ。親から愛されたいなんて、言っているヒマがあるなら早く自立するこった。これからは女も男も関係ないって時代になっていくだろう...強くなれよ。この世は弱肉強食だ」

 ノックの音と共に部屋の扉が開いた。

「え...ジャック?!」

「シビル・・・」

「へぇ、なんだ、お前ら知り合いなんだ?」



 見たこともない白いブラウスに小ぎれいにまとめたヘアスタイルジャック に、キツネにつままれた面持ちのシビル―青年が2人を交互に見やって「ふうん、奇遇ってのがあるもんだね。ちょうどいいだろう、ジャック、このお嬢さんを家まで車でお送りして...」 

 家はどこかと聞かれて答えるシビルに、青年はよしよしと独り決めに納得している。「それなら、馬車で1時間もあれば帰ってこられるな、ジャック頼んだぞ」

「ぼくが...ひとりで?」

「できるだろう、運転はあれだけ練習したんだから」と言ってから青年はフフっといたずらな笑みを浮かべた。「ま、ヘンな気を起こさないこった......1時間で戻ってくるんだぞ、夜は取引先と食事なんだ」

「......」

「ジャック、返事は?」

「......わかりました、ミスター・クロウリー」