Episode02:拝啓 お父様
幸せは、いつだってするりと指の間からこぼれ落ちていってしまうものなのですね。
近頃わたしが家族について考えるとそればかりが思い浮かびます。
大好きなお父さんとお母さんと、家族三人でピクニックに行ったときのこと。
学校の帰り道の木もれ日の森でクラリスと心の友の誓いをしたときのこと。
捨てられていた子犬を拾って帰ってきたら、お母さんも犬は大好きだからって、家で育ててあげようって、お父さんを説得する作戦を立てていたときのこと。
嬉しくて、楽しくて、小躍りする心をただ抱きしめてさえいればそれでいい...というわけには、人生というものは、いかないものなのですね。
それでも確かに、幸せだったときが幼い時分のわたしにはあったようなのです。
それが今はただ、あなたのせいですべてがもう、粉々にくだけてしまった。
その思いでいっぱいです。
「べき」と「ねばねらない」で出来上がったような、あなたの子どもになんて、生れたくはなかったのです。
そこまで書くとシビルはノートを破り捨て、机から離れてベッドに倒れ込んだ―こんな作文、提出できるわけないでしょ!
「私の家族」という課題だって。なんとなく書きだしたらこのざまで。家の恥をさらすわけにもいかないでしょうよ......。
クリスマス前のあの一件以来、ベッドで一日中伏せっていることもよくあったが、春を待ち焦がれる気持ちぐらいはまだ持ち合わせており、年が明けて気温が上昇するにつれて時折学校にも姿を見せるようになっていたシビルだった。
そして道端や公園にラッパ水仙が芽吹く頃――春の足音を間近に感じながら、シビルはジャックと連れ立って木もれ日の森にいた。おだやかな明るい日差しに包まれながら、森に流れる小川のせせらぎと野鳥のさえずりにただ心安らかでいることができればよかったのだが、2人とも神妙な顔で川岸に腰を下ろしては話し込んでいた。
「オヤジさんの自殺をすんでのところで止めたってわけだ」
「会いにこれなくてごめんね、3か月も」
「まー銃が暴発しなくてよかったよな」
去年のクリスマスシーズンにシビルの家庭で一体何が起こっていたのか、一部始終を聞いたジャックはいやいやと首を振りながら、いつも通り明るい空気を振りまく。「ホント、よかったよ、シビルがまた会いに来てくれて。俺は俺で相当心配してたんだ...でもきっと春風がさ、吹いてくる頃にはまた会えるんじゃないかなっても思ってた。もう身体はだいじょうぶ? どこも痛くない?」
コクンとうなずくシビル。
「わたしよりもお母さんが、薬物の中毒症状がでてしまって大変だったの。今はもう前と変わらないくらい元気になってきたよ」
「ヘロインだっけ。今ロンドン中で流行り病みたいになってるって、俺何かで読んだことがある」
中東から流れ込んだアヘンを皮切りに、大衆の間でも痛み止め代わりの薬物の使用が流行し、心身に支障をきたす者や経済破綻をきたすもの急増するという、イギリス社会は国家を上げての問題に直面しているという時期でもあった。
「俺の身近にも...日雇いの作業場なんかにもさ、いるんだよヤク中が。なかなか抜けられなくて、ドロップアウトしちまってる」
「...今回は、お母さんが一番の被害者よ。あたしはまだお父さんを許せないけど......でも、お父さんとお母さんがちゃんとやり直してくれるなら、もうそれでいい」
「しっかしまあよく止めたよ。一歩間違えば、最悪シビルはオヤジさんもろともあの世行き...だったかもしれないんだぜ?」
「...そうなっていたほうがよかったのかもしれない」
「何だよそれ?」
「あたしなんか...あたしもお父さんも、死んじゃえばよかったんだ」
バシャっと音を立てて、ジャックが力まかせに投げつけた小石が小川に荒波を立てる。「そんなこと言うなって!」
ハッとするシビル......そうだ、ジャックには父親がいないのだった。「ごめん...」
「素直に生きててよかったって、なんで言わねーの?」
「......」
「シビルはさ、自分がどんだけ恵まれているかとか、考えたことないのかよ?」
「ジャックは、死んでしまいたいとか、思ったことはないの?」
「母さんにひっぱたかれたから」
「え?」
「俺なんか、生まれてこなかったほうがよかったって言ったとき。思いっきり平手打ちくらったよ」
自分のほほを触った左手でそのまま後ろ髪に手ぐしを入れるジャック。「まあ、俺もよくわかんないけどさ、きっとなんかとてつもなくまずい考え方なんじゃないの? あんまり死にたいとか言うなって」
「......」
「じゃあ今日の読書会はなしってことで...」
「あ、あるよ、借りて来た本、これ!」
「わーお!」
高等魔術の教義と実践と書かれた大きな五芒星が表紙に描かれている黒塗りのペーパーバックをかばんから取り出すとシビルは得意げにジャックに手渡した。
「悪魔を呼び出す法もある、すっげー!」
「ねえ、それ、やってみようよ!」
「鳩の生き血とかいけにえとか要るんだろ...どうすんのさ? ちょっと一回ざっと見させてな」言いながら夢中になって本のページをめくっているジャックの横顔を見つめながら、シビルは2人がはじめて街の貸本屋で出会った日のことを思い出していた。
「天使の世界」というタイトルの本に、同時に手をのばしたシビルとジャックが、その一冊を店の読書スペースでいっしょに読み通したのがはじまりだった。
「いっしょに読もうよ!」そう言って満面の笑みを見せるジャックはシビルよりも頭二つ分は優に身長差がある大きな少年だったというのに、彼の屈託のなさにただ引き込まれてしまった彼女だった。同性の友だちとですら距離を置くのが常のシビルが、まさか見知らぬ少年と隣り合って座り一冊の本を読むことになるとは。
かなり汚れた服が目に付いたが、ジャックは会話じょうずで物知りで、本のページをめくるたびにそれにひもづく予備知識を、天使の発祥だとか階級だとか翼の色について等々、披露してはシビルを楽しませたり、おどろかせたりで、一冊読み終わる頃には2人は意気投合していた。
別れ際にシビルが聞けば、ジャックは彼女より2才年上で、学校へは行っていないと言う。家はロンドンのはずれのはずれのスラム街にあって、今日は何か月もかかってためた小金を握りしめて来たのだと、彼はそんなにひぱんに貸本屋を利用することすらもできないのだと言うのだ。
「じゃあ、わたしが借りた本を、わたしかジャックの家で読めばいいわ」
「いや、君んちはやめたほうが。ウチもちょっと、、おふくろが...母さんが内職しているし、弟はまだ小さくてうるさいから」
後髪にくしゃっと手ぐしをいれながら、気まずそうに視線を泳がせるジャック。やせこけた手足にあちこちほつれたり破れたりの服を見れば、彼の暮らしぶりがどの程度なのか、シビルにも想像がつくところだった。
「じゃあ、公園でもどこでもいいじゃない、本が読めれば」
illustrated by らるろ
そこから2人の読書会がはじまった。スラムにほど近い広場のベンチや木もれ日がふりそそぐ森の中で、学校帰りのシビルが貸本屋に寄れた日に、ジャックを見つけることが出来れば、その日が読書会だった。日雇いの仕事に追われているジャックが彼女と遊べる日は月に一度か二度。それでも向学心おう盛なジャックはシビルの学校の教科書にさえ顔を輝かせて、彼女が習いたての文法や方程式を教えてもらうのも楽しみなやりとりと化していた。
反対に、ジャックは野に咲く花や飛び交う虫たちについて、空の変化や太陽や月について、シビルが教科書では知り得ない世界のことをよく知っていた。
「仕事で出入りしている古物商の店主が、時々古本を読ませてくれるんだ」
シビルにとって、もはや歩く生き字引とは彼のことだった。
「あとは、たまに木彫りのペンダントを作って売り歩いたりもしてる」
そう言う彼が一度シビルにプレゼントしてくれたのが繊細な線で描かれた三つ巴【みつどもえ】が浮き彫りになったレリーフのペンダントだった。
「わぁー綺麗! これ自分ひとりで作れるの? 素敵―まるでケルトの芸術作品!」
「そっかな。母さんが、それをしていたら高く買いたがった人がいたって言うんで、たまに作って、路上で売るようになったんだ。また作ってくるよ、今度はどんなのがいいかな?」
「どんなのでもいいよ、ジャックは忙しいんだから、わたしのことは気にかけなくてだいじょうぶ」
そう言って別れたのが去年の12月...別にペンダントが欲しいわけじゃないけど、ジャックはわたしを思い出して、ペンダントを作ろうとか、少しはしてくれたのだろうか...。
「ねえ、これ、この字、何て読むんだろう?」
聞かれて、過去のフラッシュバックから我に返るシビル。「あっそれは、ウロボロス」
「ウ、ウロボロスの上に立つ両性具有者は、男女が一体化し完全な存在へと―変成を果たし人間のシンボルであり、背後に赤獅子と賢者の石をくだくペリカンが見られる...って、この錬金術の図版はすごいね!」
本当は、生きるとか死ぬとか、もっと彼と話をしたいのにとシビルは内心落ち着かずにいる。
こんな風に何でも話せる友だちなんて他にいない。親友のクラリスのことは大好きだけど、去年のあのお父さんの一件は話していない...話せない。ジャックのことも話していない...引き合わせることになるのがイヤだから。ジャックはわたしより、クラリスのほうが好きになるかもしれないもの......そもそもジャックはわたしのことをどう思っているの...?
パタンと音を立てて閉じた本をシビルに手渡しながらジャックが真顔で言いだした。
「今までありがとう、シビル。俺しばらく本は読まないことにしたんだ」
「え?」
「読書会は今日でおしまい。俺たちは今日でお別れ」
ジャックが立ち上がるのでシビルも本を片手にあわてて立ち上がる。
「俺、3月からニューカッスルの石炭工場で働くことにしたんだ。俺はもう今年15になる。もっと稼いで母さんを楽させてあげないと...弟を学校に行かせてやりたいし、もっとしっかり生きなきゃなって、冬中考えてたんだ。次にシビルに会えたときに、このことを伝えてからにしようって思ってた」
「明日から3月なんですけど...」
「そ、本当に今日の2人はラッキーだったんだ。明日はもう会えなかった」
「そりゃ仕事を変わったり、お金のこととか、大変なのはわかるけど、お休みの日には家に帰ってくるでしょう?」
「わからない」まるで帰り支度だといわんばかりに、ジャックはポケットから帽子を取り出して被る。
「待ってよ...ニューカッスルで暮らすとしても、会えない距離じゃないよね?」
「大事なことは、そもそも俺たちは、住む世界が違うってこと」
「違くないよ!」
反射的にむきになるシビルに、ジャックはあえてにこやかに言う。
「この国じゃ上流と中流は決して交わらない。中流と下流も同じなんだよ」
「ちょっと待って...」
「シビルも...まだまだ大変だと思うけどさ、お父さんとお母さんを支えてあげて、、元気で、がんばって。はい、これ最後にプレゼント」
上着のポケットからジャックが取り出して渡したのはおそらく彼手製の木彫りのペンダントだ。
「最後ならいらない」シビルは目をそらして、眉をひそめる。
「それじゃ、握手だ」
ペンダントを押し付けるように渡した右手を上着のすそではたいてから差し出すジャックだが、到底シビルに受け入れられるものではないことはわかっていた...あとはもう立ち去るだけだ。
「今まで本当に、ありがとう。さよなら!」
「ま......ジャック?!」
背を向けて歩き出していくジャックが、一度振り返ると薄汚れた帽子を取って振ってみせてくれる―が、シビルがまばたきする間にもう彼は走り去って行ってしまった。
何なの? この展開は......あまりにも一方的過ぎない? もう本当に会えないの? わたしこれからどうすればいいの?
放心状態になったシビルはどうやって自宅までたどり着く間のことが記憶になかった。どこか青々とした深い悲しみだったものが、いつの間にか憎悪の炎と化して赤々と燃えている。
「畜生...!」
帰宅して、誰もいないことがわかると、キッチンに駆け込み、パンでも残り物のシチューでも手当たり次第にむさぼり食べ尽くすのだった。
illustrated by らるろ