シビルとジャックです☆彡
Episode03:2人の父と母
「こんな親でもいるだけまだまし」
「こんな親なんかいないほうがまだまし」
親なんてものはもう二つにひとつだ。シビルが彼女の両親に不満をもっていたことはわかっている。でも、程度からして彼女の親は前者だろう...俺んちは違うんだよ。
両手を上着のポケットに突っ込み、うつむきながら家路を急ぐジャックの周辺がすっかり暗くなると、3月も下旬とは言え真冬のような底冷えが再来する...それでも、壊れかけたストーブがひとつと裸電球がチカチカと光っているだけの家だって、寒さをしのげるのはありがたいことなんだとジャックは自分に言い聞かせながらより一層足早になる......彼女は、シビルはもう彼女の自宅に帰り着いただろうか?
「食べることが好きじゃない...... って」ふといつだったかシビルがジャックに話したことばが彼の口をついて出ていた。家族と食事をしたくないって、どんだけ家族を嫌ってるんだか...同情の余地もあるけど、でも不満なんてキリがないんだ。シビルはホントにどんだけ恵まれているのかわかっちゃいない―多少のイラ立ちを覚えつつ街を抜け、森を抜け、街灯ひとつない裏街道を下って、行き着くところは彼の家がある貧民街―スラムだ。 バラックが立ち並ぶいわゆる場末の、貧しくて薄汚れた人間たちの街。シビルの世界とは大違いだろう―別にいいさ、俺には俺の友だちがいるんだ。
遠目に空き地でドラム缶で火をたきながら暖をとっている仲間たちを見つけ、ジャックは足早に近づいて行った。
「よージャック、今お帰りですか?!」5、6人の少年少女が炎に顔を赤く染めながら、なにやら意味深な笑みを浮かべてはジャックを迎え入れる。
「で、最後のお別れはいかがでしたでしょうか?」ひとりの少年が半ばからかうように聞く。
「別に...今までのお礼にペンダントを渡してきた」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
「なーんだぁ、つまんない!」
残念がる者もいれば、どこかホッとした表情をする少女たちもあり―最近、市街地のいわゆる山の手の女の子と仲良くなかったこと、明日は彼もこのスラムを離れるからお別れを言いに行くと、明け透けなジャックが仲間に話すものだから何かと話題にされるのもうっとうしかったが、それも今日でおしまいだ。
「俺はただ、本が読みたかっただけだから...別にあんなコ、好きでもなんでもないよ」わざと表情も変えずに淡々と話してみせる。「じゃあ、俺明日早くに家を出るから...しばらくみんなにも会えないだろうけど、また時期に帰ってくるわ」
「ああ―またな!」
「そうだ、ジーンを、弟をよろしくな」と思いだしたようにジャック。
「まかせとけって」
「元気でね!」
仲間たちのハグとハイタッチの小さな嵐を抜けて、ジャックが家まであと少しのところに来ると、
「兄ちゃん!」路地裏の暗がりから声が上がるのでジャックは心底驚いた。
「ああ―ビックリした、ジーンか、なんだよおどかすなよ…どうした、こんなところで?」
「父ちゃんがまた酒飲んで暴れてんで、一時避難」
「そっか......もう夜だからな、いっしょに帰ろう」
「ていうか、兄ちゃん、明日炭鉱だか石炭工場に行っちゃうの? 僕もいっしょに連れてってよぉ」
「いいかジーン、よく聞けよ。俺がいなくなったら、お前が母さんを守ってやるんだぞ?」
「いやだぁー行かないでよお!」
ジーンはジャックの服のそでをひっぱるばかりだ。少しだぶついた兄のおさがりのシャツは色あせ、骨ばった手首がのぞく様は見るに忍びなく、ジャックは思わず弟を抱きしめる。「ごめんな…」
まだ10才になったばかりのジーンだが兄について大抵の仕事を、鉄くず拾いや日雇い労働者のそのまた雑用程度のものだが、こなせるようになっていた一方で、いまだに母親にスキンシップを求めてまとわりついたり駄々をこねてみせるのはどうしたものかとなぜか自分のときとは異なるジーンの振る舞いをジャックは心配していた。
アイツが荒れ狂ったときに、ジーンが母さんを守れるのか…俺がここを離れるのはまだ早いのか…しかしそうやって彼をかばっていては余計に成長しないだろうと、シビルに話したようにこの冬中散々考えて出した結論なのだからと雑念を打ち消すかのように首を振った。
「俺には父さんはいないんだ」―そう言えばシビルには そう言い切ってしまったっけ...ふと思い出しつつ、ウソをついているといううしろめたさをもう 感じる必要はなくなるし、シビルの前で何をどう話そうかと取りつくろう必要もなくなるのだと、無性に安ど感を覚えるジャックでもあった。父さん...なんて呼べるかよ、いや、おやじだったか...シビルの前ではいちおうことばに気を使っていたんだっけ...アイツを何て呼んでいたかもどうでもいいわ。だけどなんで今日の俺には涙が出るんだ...
「ただいま」
「あら、どうしたの? 具合でもわるいの?」
髪はてきとうに巻いて身なりは汚れ切っている母親だが、自分の母親がそこそこ美しい女性であることをジャックは知っていた。母が早い時分に授かった子どもだったので、時々母子でいると姉と弟に見間違えられたこともある、そんな若く美しく、また聡明でもある母親を、彼はずっと誇りに思っていた。
いつでも子どもたちの様子を気遣う母の優しく包み込むような瞳に触れ、ジャックは涙目を悟られないように上着を脱ぎながら聞いていた。「アイツは?」
「深酔いしたのね、よく寝てるわ」
母親の視線の先に、部屋の片隅のベッドがだらしなく大男に占領されている様子を確認すると、ふとテーブルの上に黒パンを見つけたジャックだが、伸ばしかけた手を反射的に引っ込めた次の瞬間、パンはジーンの胃袋の中へ...
「あら、それはジャックに取っておいたのに!」
「いいんだ母さん、俺もう寝るから......ジーン、俺少し風邪気味みたいだから、今日は離れて寝てくれよ」
ジャックが無造作に毛布にくるまって部屋の片隅にうずくまったところで、母親がおもむろに出かける支度しながら声をかける。
「ごめんねジャック......母さん、ちょっと出てくるわね」
ああ―母さん! この時間からロンドン駅に続く裏街道に立っていれば必ず客はつくだろう......
ジーンを今年こそは春から学校へ行かせてあげたいと母さんは...俺のときもそうだったんだ。母さんのおかげで俺は小学校の2、3年だけど通学できた......それがなかったら、字なんか読めなかったろうし、金勘定もできなかっただろう..でも.来月からは俺が炭鉱から仕送りをするから、そしたらもうそんなことはしなくてすむから、それまでどうか待っててくれ......ちっきちょー明日はもう母さんともお別れだ。
幼い頃は母親に無邪気に抱きついて全身で甘えることもあったが、ジーンが生まれてからだろうか、何となくそれをしなくなっていたジャックだった。 今日ぐらいはハグをして別れを惜しみたいと思っていたのに...その母の身体をカネに代えて暮らしていかねばならない現実――歯噛みし、瞳をぎゅっと閉じてもあふれ出る涙を抑えきれないジャックは自分の中で何かが粉々に打ち砕かれるのを感じながら、ただもう眠りにつきたいと願った。
が、この最悪の間合いでアイツが起き出してくるではないか。
「おっとエイミー、お出かけかい? しっかり稼いでくるんだぞ!」
酔っ払いの大男が妻を茶化すことばが!
ギャンブル狂いで大酒飲みで妻や子供に手を上げるのが茶飯事の父親など悩みの種にするのもしゃくに障ると、ジャックは父親に対して徹底的に冷静な態度をとっていたが、今日ばかりは反射的に飛び起きて父親に食ってかかるのだった。
「お前はそれでも人間かよ?」
「はァ?...って、どーしたジャックちゃん、何泣いてんだよ?」
「っ......るせーほっとけよ!」
ジャックの痛烈なパンチもそこそこ効いたであろうが、大のおとなと15才の少年とでは勝負はついている。反撃され、ただもう一方的に殴るけるの暴行を加えられる......
「母さんはもうあっち行けって!」
止めに入るなと母を遠ざけることで精一杯のジャック―いったい何度こんな目にあってきただろう。こいつのおかげで俺の身体中もう生まれたときから生傷が絶えない。こんな親のもとに生まれてきたばかりに苦労ばっかりだ―そういえばシビルも―
薄れゆく意識の中でジャックはシビルを思うのだった。皮肉にも、最後に彼女と会ったときの話題がオヤジさんのDVで。彼女の親についての不平不満はきっと乗り越えられるレベルのものだろうと勝手に決めつけていたけど、実際そんなことは誰にもわからりはしないだろう。シビルの顔や身体にあっただろう傷はもうすっかり癒されたみたいだったけど…心に負ったものは生涯ずっと......
シビルの家では母親のエイダが泣きわめくのを、ウェイトが辛抱強くなだめていた。近所の子どもの家庭教師などをして家計の足しにしていたエイダが、夕方遅めの帰宅を果たしたところで、シビルが食い散らかしたキッチンの残骸を前に半狂乱におちいっていたのだ。
「このところだいぶ落ち着いていたのに......ねえ、やっぱりあの子は...!」
「大丈夫だ」
とにかくウェイトはエイダを抱きしめる。
「大丈夫って何が? あの子はどんどんわるくなる一方だわっ」
少し落ち着いたかと思うと、またわっと顔を覆って大泣きを始める......幼い少女のようになってしまうエイダをウェイトがただただ「だいじょうぶ」だと繰り返す。
以前のウェイトは「何がどうだいじょうぶなのか」と長々と時間をかけて説いて聞かせて会話を終了させていたものだが、あの一件以来、すっかりやり方を変えていた。
娘のシビルの変化にはウェイトとエイダの関係性が如実に反映されているのだろうから。自分が変わることなのだろう。今までとはやり方を変えてみよう。やってこなかったことをやることだろうと、ウェイトはことばを選び出す。
「希望を持ち続けよう、エイダ。私たちの娘を私たちがまず信じなくては」
「あの子には悪霊か低級霊が憑依しているのよ、きっと...」
今日のウェイトはここでもいつもとやり方を変えることができた。彼女のことばを否定せずに受け入れたのだ。
「そう…そうかもしれない。わかった、いっしょにそれを退治しよう。私たちがやるんだ、他の誰かに金を払ってやってもらうんじゃない」
「......」
「こんなに食べたり吐いたりを繰り返していてはシビルの身体がどうにかなってしまうだろう...まず病院が先だ。明日にでも相談に行こう、いいね、エイダ?」
今までこの段階で、幾度となく繰り返されてきた2人の口論―だが、不思議なことにウェイトがエイダを受け入れると、エイダもまた合せ鏡になるではないか。ぶつかって反発してくるエイダを責め、彼女が引くことで場が収まる―それがいつしかこの家のルールになっていたとウェイトはがく然ともしていた。争いの火種をくすぶらせながら常にこの家の中に戦火をもたらしていたのは自分なのだ―反撃に反撃を繰り返す不毛の国家紛争は愚かな支配者たちの大罪だと嘲る自分がこのざまだ。泣きわめいて逃げ惑う市民たちがこうむるあの惨劇を愛娘に体験させていたのか―幼い時分のシビルには胸が張り裂けるほどのものだったに違いないと打ちひしがれるも、ここで自分が絶望しては完全に救いがない―
「あとは仕事で返すのみだ」と彼はすでに心中で誓っていた。これまでもいつもそうだった。無学故、10代では様々な職業を転々としながら、20代で英国国立美術館の司書の仕事にありつけてからも、ミスをしたり挫折を味わうことがある度に、言い訳ひとつせずにただ仕事で返すのが彼の流儀だった。
「大事なことはこの家で戦争を起こさないようにすること…そして、シビルに憑いた悪霊をだね、退治することを私の最優先の仕事にするから…私を信じて、いっしょについてきてほしい」
言われてようやくエイダは静まりを見せ、ウェイトの腕の中で何度も繰り返しうなずくのだった。
一週間後―
「Anorexia nervosa(アノレキシア・ネルボーサ)、別名拒食症、思春期心身症とも言われるものですが、おそらくそれでしょう」
窓ひとつない小さな診察室に、白髪交じりの初老の医師の静かな声が響き渡った。
シビルのママ、エイダとジャックのママ、エイミー
illustrated by ぼんぼり