Episode07:自由であれ
馬車にゆられながらシビルは泣いていた――聞けば、ジャックはすべてを失っていたのだ。炭鉱組合と名乗っていた業者がそもそも詐欺師で、仕事の口も組合加入金も、すべて奪い去れて、傷心の内にスラムに舞い戻ったところで、ジャックはアレックスに会ったのだという。
「アレックス・クロウリー……本名じゃないらしいよ。色々な仕事を色々な名前でやっている。クスリとかやばいものもあつかってる。スラムでは、人身売買につかえる人材をあさってるんだ」
「やっぱり、神様じゃなかったんだ」
クロウリーを思い起こしては、もしや彼は人間ではないのではなかろうかと、人間に姿を変えて現れた神のような存在ではなどといった気持ちにかられた記憶がシビルに口をつかせていた。
「はっ、さすがあいつだな! そう、そうやってみんなあいつにだまされて……あいつも相当なペテン師だよ。よかったな、あいつが女子どもに興味がなくて」
「そ、そんな人のところで働いていて、だいじょうぶなの?」
「だいじょうぶもなにも、それしかないじゃないか、家に仕送りするのが俺の仕事なんだから」
「あの人、自分の両親の殺害計画を立てたことがあるって」
「ああ、何人か遣っちゃってるんじゃないの……俺も早いとこ逃げないとな」
ギョッとしているシビルなど眼中にない様子でジャックは馬車を走らせている。「シビルを送り届けたあとに母さんのところに寄っていきたかったんだけど……1時間じゃあもどれないか……畜生っ」
「ごめんね……わ、わたしはいいよ、ここで、降ろしてちょうだい」
「ばかかよ、 できるわけないだろう、こんな真っ暗な土地勘もないところで。 っんとに頭にくる、 言ってくるなよそういうこと」
「あの、ジャック……ひとつ聞いていい?」
「何?」
「わ、わたしたちって、ちょっといい雰囲気だったとき...あったわよね?」
「......」
「それともわたしだけが、一方的にそう思い込んでたのかな?」
シビルにしてみれば渾身の力をふりしぼっての質問だったが、ジャックは目もくれずにガス灯が立ち並ぶ人気のない街並みを急いでひたすら馬車を走らせるだけだ。暗がりの中で彼自身の感覚だけを頼りに馬を御す彼に、シビルはそれ以上話しかけることもできないでいる。
「この辺かな……」しばらくしてから口を開いたジャックだが、話す内容はシビルの家の番地と家屋敷の姿形を聞くようなことばかりで、ついにシビルはしびれを切らせて言った。
「ねえ、わたしたち、おつき合いしていたも同然よね?」というわけはないのは重々なのだが、シビルはジャックからことばを引き出したい一心だ。
「……」
「それとも、もしかして本当はわたしのことなんかキライだったの?」
「そろそろ、君ん家のエリアだ。赤レンガの家だっけ、あの辺かな...」
「本を読みたいから、わたしのこと利用してただけなの?」
「さあ着きましたよ、お嬢様」一軒家の前に馬車をつけたジャックが、まるで執事の物言いになる。「さぞやお家の人が心配してらっしゃるでしょうから、、」 ジャックがその日はじめて見せる笑顔に、シビルにとっては念願のそれのはずなのに、完全に問いかけをはぐらかす彼にはかえって苛立ちが倍増する――何なの? 一体!
彼が差し出してくるその手にも、あの別れの日の一方的な彼の握手がオーバーラップして、反射的にその手を弾き飛ばしていた。
「痛っ」
「何よ、イイ人ぶらないでよ!」シビルはもう抑えがきかなくなっている――「わたしだって、あんたなんか大っ嫌い! スラム育ちの貧しい子だからって、可哀そうだと思って、仲よくしてあげただけなのに。イイ気にならないでよね!」
illustrated by ぼんぼり
「はん、ホンネが出たね...」
「あ、いや......」
ジャックが無表情な横顔を見せるのを見て、シビルは全身で自分の鼓動の音を聞いていた――いや、ホンネなんかじゃないのに、もしや取り返しのつかない発言をしてしまったの? 「待って、ジャック! 今のは、その……」
「シビル! 一体ぜんたい、お前はどこに行っていたんだ?」とそこに現れたのがウェイトだ――門前に馬車が止まる音がして駆け付けたところだが、開口一番シビルを責め立てている。「加えて、今の物言いは聞き捨てならない……なんて言い草だ」
「お、お父さん……聞いてたの?!」
「彼に、謝りなさい。私からも……娘がたいそう無礼な物言いをして、申し訳ない」とウェイトは、ぶ然としてながら馬車の運転席にいるジャックの顔をのぞきこんで頭を下げた。「事情はさっぱりわからないが……何であれ、娘をこうして送り届けていただいたことに、まず感謝する。ありがとう」
「まあまあ、シビル! あなた一体どこへ……何、何もなかったわね、無事なのね?」駆け寄ってきたエイダがシビルを抱きしめるのを横目に、ジャックがどこか気の抜けた調子で言い放った。
「ふーん、あなたがたがシビルのお父さまとお母さまでございますか……お宅のお嬢さん、イーストエンドの川沿いに倒れていたんですよ、空腹のあまり。僕の主(あるじ)が助け出して、僕はただ命じられてここに。確かに、送り届けましたよ」
「命拾いを……ありがたいことだ。しかし、君とシビルとは前々から知り合いだったような、そんなようにも、すまんが、さきほどの2人の会話の限りでは、聞こえたんだが……」
「ええ、そうすね。僕たちは読書会仲間で……だけど俺は本を買うお金もない貧民街の育ちで、よくシビルさんが本を貸してくれました。同情心から仲よくしてくださったようですが、とてもありがたく、思っています。ナリはこんなですけど」とジャックは自分が着ている真っ白いブラウスのそでを一べつしつつ、「ただ俺はお金持ちに買われただけ……犬みたいなもんです」
「そんなことないよ、ジャック……」シビルが口をはさむが、エイダが反射的にシビルを強く抱きしめてジャックに近づかないようにしてしまう――。
「俺みたいな卑しい身分の人間とは、もうこれっきり関わらないように、どうぞお嬢さんによく言って聞かせてください」
「いやいや、待ってくれ……ジャックくんと言ったかな、娘といっしょに本を読んでくれる友だちがいたとは、私はただただ嬉しい……あの子とはまだこれからも、仲よくしてやってはくれないだろうか?」
「友だちとか仲よくとか、そんなことは人から頼まれてすることじゃあ……ないっしょ」とジャックはムチの音とともに、馬車を走らせると暗がりの中へあっという間に消え去っていく――。
「ひどい、お父さんのせいでもう最悪の状況じゃない!」
シビルはエイダの腕を振り払って家の中に駆け込み、自室のベッドに泣きくずれ、ウェイト夫妻が追って入てくるが―彼女は手当たり次第にクッションやら人形やらを投げつけ始める。
「出てってよ!」
「いや、出ていかないよ、シビル……今日は話をしよう。ドクターが話してくれたことを……お前にも話すから」
「そうね、お母さんも……まず、あなたに謝るわ。お父さんがあなたに手を挙げたことは、お母さんに原因があることだから…ごめんなさい、シビル」
「今さら何なの? あとから謝ったって、わたしの傷は消えない……あんたたちがやったことは、帳消しになんてできないわよ! 大人はいつも勝手で卑怯でずるいばっかりよね」
「わるかった...お前に傷を負わせたことは、、ただもう、謝ることしかできないが」
「ふうん、だったら死んでお詫びをしてほしいわよ!」
「あなたにそんなことを言わせている……私たちが最低、最悪の人間なのね」シビルの肩に両腕を回そうとするエイダをシビルは思いきり突き飛ばした。部屋に飾ってあったビスクドールの髪を引っ張り振り上げて床に叩きつけたつもりが、へたり込んでいたエイダを直撃してしまい、彼女の額から鮮血がほとばしるものだからもうシビルは半狂乱におちいってしまう――
「もうイヤ! あんたたちもこんな世の中もみんなイヤ!!」
ウェイトが今にも腕づくでシビルを抑えつけようとするのをエイダが制していた。
「あなた、シビルの好きにさせて、もっと言いたいことを言って、吐き出させてあげてちょうだい……わたしは大丈夫だから」と床に座り込んだまま額を抑えるエイダに寄り添いながら、ウェイトはシビルを見守るしかなくなる――地団太を踏みながら泣きわめいては、手近なものを片っ端から書籍やら机の上のものから引き出しの中まで、壁に床に辺り一面に投げつけ散乱させるシビル――あの日の自分と同じではないかと、ウェイトはエイダの不貞を知らされた去年の冬の日を力なく回想する。この子に何が憑依していようか、悪魔つきなどでもない!……すべては私がまいたタネだ。
その日まともに食事をとっていなかったシビルが比較的短時間の内に体力を消耗した様子で、やがて泣きくずれながらその場に座り込み、眠りにつくかのように静かになった。
「エイダ、額の傷を……」
「いえ、それよりあの子を」言われてウェイトはシビルを抱き起こしてベッドへ運ぶのだが、彼女の軽さに打ちのめされる――「細すぎる……これ以上痩せてはもう危険だ」シビルをベッドに横たえ、乱れた髪に手ぐしを入れながらウェイトがつぶやくと、横になったままシビルが涙声をふりしぼる。
「わたしもう死にたいよ……こんな世の中に生まれてきたくなんかなかったのに、お父さんもお母さんも大キライ……わたしを産んでほしいなんてひとことも頼んでもないのに……わたしなんか何で生んだのよ……!」
「すまない……」とウェイトは嫌がられるのはわかっているが、シビルを抱きしめほほをすり寄せずにはいられなかった。「お前が食を拒む理由が……こういうことだったとは」
これが一般に言う拒食症の正体なのかはいざ知らず、彼女はただ人生そのものを拒んでいる――生きることに全身全霊で抵抗している...... 死にたい病……みたいなものだろう。
「お前は人一倍、繊細で傷つきやすい――生まれたときから、お父さんとお母さんはずっと心配してきたことだ。この世の中というところが、お前にとってどうしたって生きづらい世界になってしまうのではないかと……やはり、そういうことになっていたんだね。それでもだ、私たちはお前にどうしても、どうしてもだ、生きていてほしい。ただ生きてさえくれればそれでいいから――」
「もうイヤ!」ほとんど金切声を上げるシビルだが、体力尽きてもはや微動だにできない。
「私たちきっと今まであなたにきびしすぎたわ 」エイダも泣きながら半ばシビルにすがりついている。「もう学校には行かなくていいから、ね?」エイダがその場で独り決めにして言うとウェイトもうなずいている。「お願い、死にたいなんてもう言わないで ちょうだい。あなたはもっと自由に、好きなように生きていいから、ね?」
「あっそうですか……」弱々しく、シビルは受け応える。「大人はみんなずいぶんと勝手な生き物だわよね。わたしもどうせ生きるなら、好き勝手にやらせてもらおうかしら……」
「いや、待ってくれシビル、自由と勝手は違うんだ」はたとウェイトはシビルの瞳に視線を落とした。
「……何それ?」
「人は皆ね、助け合って支え合いながら生きてかなきゃいけないのだから、どこの誰であろうと自分勝手なふるまいはご法度だ。お前だって、私たちが止めるのも聞かずに身勝手に死ぬのは、それはお父さんは容認できない。だがね、お前が自由意思で、本当に心の底から死を望むのなら、その時はそれもいいのだと、お父さんは思うよ」
「あなた……?」困惑するエイダの手を強くにぎりしめながらウェイトは続ける。
「いいかい、シビル。お前にはまだ死というものが、まったくもって わかっていないはずだ。それなのにどうやって、心の底からそれを望めるんだろう? わたしたちにはまだ、お前を死の国に行かせるわけにはいかないんだよ……」
「……」
「自由に、もっと自由に生きてから、それを判断してくれないだろうか?」
自由であれ――そう十代のいつの頃だっただろう、さっき会った少年の時分だろうか――母から伝えられたことばでもあったと、脳裏によぎるジャックの姿にウェイトは自分を重ねていた。
「自由に生きるとは、誰にとってもそうたやすいことではないのだろうが……私たち家族はそのために、結びついたのだと考えてみてはどうだろう? 皆でそれぞれの自由を応援し合っていこうではないか。せっかく縁あってこうしてここにいっしょにいるのだから」
「それは名案かもしれませんわね……」エイダにも笑みが浮かんだ。「わたしたちだって、頼んで産んでもらったわけではないし、どうして生まれてきたのかなんて、わからないことなのですから」
続く
♪幼くして消えたかえらぬ夢の面影をすれ違う少年に重ねたりして・・・Tomorrow never knows の歌詞のこの部分が妙に好きな筆者にて、下記のウェイトの台詞が生まれました。
自由であれ――そう十代のいつの頃だっただろう、さっき会った少年の時分だろうか――母から伝えられたことばでもあったと、脳裏によぎるジャックの姿にウェイトは自分を重ねていた。。
オマージュ企画でもありました。ドラマのエンディング風に聴いていただければ幸いです。