Episode05:太陽と月
シビルの代理受診を終えたウェイトとエイダは、乗り合い馬車を待つ間、病院近くのカフェに席を取って向き合っていた。
「エイダが本当のことを......あなたの口から言ってくれたことに、感謝している…ありがとう」
「いいえ、私はあなたのために話したというわけではないの、アーサー」比較的込み合う時間帯のカフェテリアの中で、エイダは声のトーンを落とすこともなく言い切った。「夫以外の男性と関係をもって、薬物におぼれて。こんなダメな母親...いえ、もう母親なんて失格だけれども...今のシビルの元凶をドクターに伝えるために、私は今日でてきたのだから」
隣のテーブルからの視線が全く気にならないことを不思議に感じつつウェイトは腕を伸ばしてエイダの手をにぎりしめた。
「ありがとう...おかげで私も洗いざらいを、医師に打ち明けることができた......妙にすっきりしているんだよ」
エイダもまたウェイトの手を軽くにぎり返して屈託のない笑みを見せる。
「そうでしょう、話をするって、とても大切なことなんだわ......思いを話すだけで、それだけでいいことがあるものなの。だからなんだわ、私がよく占い師の元を訪れるのは......あなたは嫌がるけれども」
ウェイトレスが運んできた熱い紅茶の湯気が2人の間でゆれうごく。琥珀色のアールグレーに瞳を落とすエイダ。
「シビルが悪霊に取りつかれているっていうのも...そうじゃないことはわかっているのよ、ただ......あなたにもっとこちらを向いてほしかった...のですかね、今思えば」
「ホンキで悪霊のせいだと、そう思っていたわけではなかったんだね...」
「でも私は、そういうことはごくまれにでしょうが、あると、思っているわ。成仏しきれなかった何かの怨念がシビルに憑いてしまったんじゃないかって一時期とても怖くなったことは確かよ。ただ、霊媒師に相談に行くたびに提示される祈祷料がハネ上がるものだから......これは...ちょっとやっぱり違うかしらと」
エイダはティーカップに静かに口をつけると瞬間、瞳を閉じて香りを味わい―話を続けた。「だから霊媒からは足が遠のいたけれど。よく行く手相見の占い師は、そんなことはなく。彼女はいつだってただただ、私の話に耳を傾けてくれたものよ......シビルのことも、あなたのことも、時間いっぱい。私はとにかく話を聞いてほしかったのです。なんでいつも私ばかり...辛い思いをしなきゃならないのかとか...なんで誰も私をわかってくれないのかとか」
「すまない......」
「あなたとの相性をね、何度も何度も、色々な占いで見てもらったわ......星でも、ダイスやトランプ、タロットでもね、答えはみんないっしょなの、『最悪』ですって」
「...そうなのか?」
「それはそうよね、大当たりだわ。私が強引に、しむけてしまった結婚なのですから」
「お腹に赤ちゃんがいるの」
一体全体どうしてそういうことになるのか......? 半ば飛び出しそうになることばを懸命に抑えて、めまいすら覚える混乱の中でウェイトはエイダに伝えたものだった。
「もちろん、責任はとります。まさかこの期におよんで私が私の子の父親を辞退するということはあり得ない......とは、あなたにもわかり切ったことでしょうが」
エイダを憎々しく思う一方で、気づけば交際5年・・・二人ともに三十路である。長すぎる春とやらをエイダに味わせてきてしまったのであればウェイトにも非があろうかと、彼はその日を境に覚悟を決めるのだった―父親であり一家の主でもあるA.E.ウェイトとしても生まれてくる子とエイダのために、生きていくのだと。
エイダがわざわざ計画的に運ばなければならなかったほど、当時のウェイトの前にあって「結婚」「家庭」の二語は完全にタブーだった。
「自分にとっては別世界のことのようでね」ウェイトは今となってはおだやかに振り返る。「父親がいなかったせいなのか―どうもピンとこないというか。家庭なんてものは荷が重くて、到底私のものではないだろうと...だが、だんだん神からのギフトだとさえ思てきたものだよ、シビルも、あなたのことも、共に暮らす毎日の中で」
「まあ...! それを早く言ってくださればいいのに......それにしても、あの時のあなたの困り顔といったら!」エイダはティーカップを両手で持ち上げては苦笑した。「それでも私はよかったのです。人並みに結婚ができて、母親になって、家庭を切り盛りしていればきっと幸せになれるって、信じていたから。私なりに夢中で幸せになろうとしてみたものだけど」
カップの中の紅茶をゆらしながらとつとつとつぶやく。「あなたが仕事仕事で、私を見てくれなくても、そんなことはどうでもいいと思っていたの。私にはシビルがいるんだからって。あの子にすべてを注ぎ込もうとしたのだけれど」
エイダは恋人時代からずっと、ウェイトの原稿の整理や資料集めにも立ち働き、シビルが生まれた後も子育てをしながら、妻や母として、秘書としてかいがいしく立ち働いてきた。 娘から手が離れ出すと外で家庭教師のアルバイトをするようにもなり、きっとそういうことがただ好きな彼女なのだろうとウェイトは思ってきたのだったが、一体どれだけこの人の心に影を落としてきたのかと、今目の前で昔話に顔をほころばせているエイダを直視していられず、ウェイトは紅茶をすすった。
「ねえ、シビルはあなたにそっくりなのよ......そうやってあの子が飲みものの最初のひとくちをすするときとか......首を傾けて考えごとをしているときとか」
「そうか......」
「野菜の付け合わせを食べたくないからグレービーがついたことを言い訳にしたり、料理をおかわりするときにはお皿も新しいのにしないとイヤだとか、どんなに暑くても虫が入るのがイヤだって 窓を開けさせないとか、床に落ちたコインは必ず水洗いするとか、とても細かくてデリケート・・・時々過剰に繊細で」
「......すまない」
「段々あの子を見ているのが辛くなってきてしまったのね」
ウェイトは手にしていたカップを横に置いて、懺悔するかのように両手を組み合わせていた。
「いくら謝ろうが、私がしてきたことは、過去は、消すことができない。すまなかったとしかもう言いようがないが、せめてこれからのことは......これからあなたはどうしたいだろうか?」
「あなたは、どうしたいの?」
あの12月の惨劇以来、ウェイトがエイダにこれからのことを問うたことは幾度かあり、その度に同じ質問がエイダから繰り返されていた。
質問に質問で返してくるなと、以前のウェイトならそこで機嫌を損ねてみるのもありだったものだが、果たしてなぜそこで自分の機嫌が損なわれるのか? ウェイトは自分の心の出どころに向き合うことで、その鉾先にあるものを守れることがわかるようになっていた。期待とは違うこのやりとりにただ立腹しているのか? いや・・・そうじゃないだろう。どうしたいのかと言われれば、「やり直したい」と言うのが率直な思いなのだろうが、その場で承諾を得られたところで、またいつかそれが反故にされることが・・・意地やらプライドやらが許せないのだろうと、そんなところだと最近になって思い至り、「何とまあ小さな男ってやつだ!」ウェイトはひとり自嘲気味に吐き捨てたものだった。
「あら、何がおかしいの?」
エイダにいぶかしげに言われて、笑みを浮かべているウェイトが軽く首を振った。
「いや、ただ、私のくだらない意地やプライドのために、これ以上あなたを拘束しておくのは、かえって私が情けない。そもそもにして私に何を望む資格もあるまい」
「それで?」
「あなたを自由にするべきだろうと......いうのが私の考えです。実家へ...戻ることに問題がないのなら、離婚の手続きをしよう」
「......」
「一方で、今はシビルにとって大事な時期だ、シビルにかこつけて、虫のいい願いだと言われるかもしれないが、私は心から心配している、シビルのことも、あなたのことも......だからもし、可能なら、もう少し、時間をくれないだろうか? せめて、シビルの病がよくなるまで...」
「確かに、シビルのためには、今は私たちまだいっしょにいたほうがいいのかもしれません。でも…どうなのかしら、あの子のためになることなのかって......こんなのは...愛ではないから」
「ああ......いや、大丈夫だ」ウェイトは間髪入れずに言い切っていた。「私たちはあの子の太陽と月なのだから。ふたりそろっていてあげられるに越したことはないだろう。それは私が一番よく知っていることだ、片親というのは、何というか、どこか身体の一部が失われている気にさえさせられるものなんだ。どんな親でもいてあげられるだけまだましなんだ」
「そうでしょうか・・・」
「いないほうがましな親なんて、果たして存在するのかね? いない親からどうやって子どもが生れてくるんだ......そんな親から生まれた子供もまたいないほうがましな存在だっていうのかい? 一体全体、誰にそんなジャッジができるというんだ?」
「わ、わかったわ......ね、声が少し」さすがに周囲の視線を感じたエイダが肩をすくめてささやいた。「今はもう、私が望むのはシビルのことだけ。あの子に回復して、幸せになってほしい...ただもうそれだけです。だから、しばらくはまだ、あなたといっしょにやってみることなのでしょうね」
「ありがとう。もう一度、やり直してみるよ、私自身を。それでもあなたが見切りをつけるというなら、その時は従いましょう」
「お手並み拝見ですわね、アーサー」
「シビルについては、まずもう一度『断食する少女』の資料を調べさせてほしい。あの文献は図書館で見たことがある。ニューヨークではイカサマ聖職者が一枚かんで裁判沙汰になった。その判例があるはずなんだ」
「ど、どういうこと?」
「とにかく調べさせてください」
「ええっと、じゃあ、その…次の診察には、私たちといっしょにシビルも連れて行きますでしょ?」
「もちろんその予定だが......その時はシビルがマッドハウス※行きかもしれない。それは阻止したいところだ」
「え......そうなの?! あのドクターが治療を担当してくれるんじゃ?」
「彼はあまりにも...落ち着いていた。あれが難病に立ち向かう医師の姿だろうか......シビルは心を病んでいるが、狂人ではない。おっと、馬車の時間だ、行きますよ」
帽子を手に取っては席を立つウェイトに、そそくさとそれでも優雅に、残りの紅茶を飲み干したエイダが若干眉をひそめながら後に続いた。
※マッドハウス:ヴィクトリア時代のロンドンにあった狂人塔
おまけ・・突然ですが4コマまんがを作ってみました。
4コマまんがはnahdia.netからお楽しみください
illustrated by ぼんぼり