Episode 07:パメラ、天使に出会う
いっ・・・痛い!
頭をしたたか打ちつけたのか―どうやら横たわっているようだ。全身に激痛を感じながら、パメラはまばゆい光をあちこちに見ていた。太陽光のようだがそれほどには強くない、時折ハチミツ色に光る輪がシャボン玉のように降ってはわいて眼前に広がっている。
「あなたがシアワセなら、それでいいことなんじゃない?」
どこからともなく声がする。光の向こうからか・・・ひとつ、眼前に光の輪が大きく大きくふくれ上がったかと思うと、線画のような目と口が現れて、ムクな乳幼児の笑みを浮かべる。
「ぅわっ...」
パメラは身をよじるも起き上がることができない上に、まぶしさに目を開けてもいられない。高く通った大人の女性のような声がまた続いて聴こえてくる。
「あなたがシアワセじゃないことが、問題なのでしょう?」
「何なのあなた、誰なの・・・? ここはどこ?」
階段で足をすべらせたことにだけは思い至るが、か細い声を振り絞ることしかできない。するとパメラをまねるかのようにオウム返しのようにまた声が続いた。
「そおゆうあなたは? あなたはだぁれ? 誰なのよ?」
「あたしはパメラよ、パメラ・コルマン・スミス・・・」
「それはあなたの名前でしょ?」
「...」
打撲の衝撃に全身をはがいじめにされたままだが、はたと考え込むパメラだった。
「さあ、答えて。あなたは誰なの?」
「しらな...いや...あ、あたしは、あたしよ!」
苦しまぎれのパメラにフフフと光は鈴を転がすような声で笑う。
「あなたがシアワセになるには、あなたが一体誰なのかを知る必要がある・・・あなたどこへ行き、何をつかめばシアワセになれるのかは...あなた次第」
「...」
「あなたが何者なのか、によるのだから」
「あたしが...ナニモノか」
「そう、あなたは相当今自分自身を見失っている。だから、いっしょにあなた自身を探しだす旅に、出てほしいの」
身動きできないところにそれはムリだろう言いかけて、パメラは一種の浮遊感とともに全身から痛みが引いていることに気づいた。
「あれ? か、身体が軽い...!」次の瞬間、目を開けると飛び込んできたのは大きな白い翼だった。猛禽類のように肉厚で、バサっと音を立ててパメラの視界をさえぎると、微妙に上下しながら空気を動かしている。すなわち、天界の使者のご降臨というところか―パメラはいよいよ最期かと目を閉じた。
「大丈夫、あなたはまだ生きている」
再びその声に目を開けると、次に飛び込んできたのは、あどけない、けれどとても美しい、少年のような少女のような顔だった。アーモンド形の褐色の瞳に均整の取れた華奢な目鼻立ち― 徐々に焦点が合わさっていく中で、パメラの脳裏にルームメイトのルビィが浮かんでいた。
(これぞまさにビスクドール...ルビィも相当に美形だけど、段違いだ...それでも彼女は…ルビィはきっとこれから大成するでしょうね、役者として)
両腕を広げてもまだ足りないほど大きな翼を背に、ハチミツ色の逆光の中で透明感のある瞳を際立たせて、天使は少々不安そうな面持ちでもある。
「どうだろう、少しよくなってきただろうか?」
さきほど聞こえた高飛車な女性の声の持ち主とはまた別の存在なのだろうかと、まじまじと天使を確認しながらようやくパメラは上半身を起こすことができた。
「―あなたは、さっきの光の声の主とは違うのね?」
「私はアーク・エンジェル、守護天使です」
「アーク...」
「ええ、アークと呼んでいただければ」天使はパメラを安心させるようにおだやかな笑みを浮かべた。「まあ、階級としては下っぱですが...天使は天使、光の御使い、でございます。私たちを束ねているのがあの光の主。今彼女がオカンムリなわけで...詳しい話はできませんが、私たちを助けると思って、どうかパメラ、私といっしょに来ていただけないだろうか?」
「って言われたって...つっ」病み上がりのように起き上がっているのが辛い様子のパメラの横にアークがひざまづいて、そっと両腕で抱きかかえようとするが、パメラは淑女のたしなみで即座に肩を引いた。「えっと、ちょっと近いです、守護天使の...アークさん?」
アークも少し離れてクスリと笑う。
「失礼...でも、私は決して男ではありませんので」
「あ、あら、女の子―?」
「いえ、天使に性別はありませんので。私たちは精霊、いわば気体の私たちですから、人間には見たいように、見えるんですよ...ね、あなたにはどんな男の人に見えているのでしょう?」
「男の人っていうより、少年ね、女の子みたいに線が細くて、未成年者よ。私の方が犯罪者にならなきゃそれでいいわ」
「OK、心配ご無用です。私の姿が見えない人間も中にはいる。見えない人には見えない私たちですから! で、本題なのですが、あーっと単刀直入に言いますと、あなたにはぜひともタロットの絵を描いて欲しいのです」
「わるいけど、それはできないわ、あたしにはもっと大事な仕事があるの!」
「7日間いただけないものでしょうか?」
「...断る、と言ったら?」
「いずれまた、あなたを守りに来なきゃならない......二度手間だ。いっしょに行こう、今すぐ」
翼を大きく広げてアークが立ち上がりざまパメラの手を取ろうとするが、反射的に彼女は身をひるがえして、よろめきながらも立ち上がった。
気がつくと場面が変わって、パメラは大きなにび色の鏡の前に立ちすくんでいる。幼い時分に憧れた白家具のドレッサーを前に、しかし鏡に映っているのはパメラ自身ではなくアークなのだ。
「これは魂を映し出す鏡。魂には形がないし、口もない。ここに映し出されているのは、いわばあなたの本心だ。ウソイツワリのない、裸の心」
パメラがそっと鏡に触れると、そのまま手が鏡の中に埋もれていき、その手は鏡の中でアークにやさしく包み込まれる。温かな心地よいぬくもりに、抵抗する術を失うパメラ。アークはまた曇りなき瞳を向けて微笑み続ける。もうこれは反則だと、パメラはそこで覚悟を決めた。
「天使にお願いされるなんてこともそうないことでしょうし...わかった、前言撤回してもいいわ」
「......!」
「あたしは死を恐れたことなんかないと思っていたんだけれども、さっき、自分がまだ死んでいないって知らされたとき、生きていて本当によかったって、心の底から思ったの。あなた方に救われた命だというなら、どこへでも行ってさしあげましょうとも...!」
次の瞬間、アークが鏡をすり抜けてパメラをハグして、2人はそのまま鏡の世界へ溶け込んでいったかと思うと、アークが翼に力を蓄えるために一瞬瞑想にふける。次の瞬間パメラを小脇に抱えて空高くへと舞い上がっていくのだった。
勢いのすさまじさに、ひたすら天使にしがみつくのみのパメラにアークが言った。
「見て、あれがナイル川!」」
「えぇっっっ」目を開ければ、下方はるかかなたに一筋の青い河の流れが見渡せる。「エジプト上空にいるってこと?」
「川にはワニがいるからね、落ちないようにしっかりつかまって。エジプトでワニに食われるってのは『地獄行き』を意味することなんだ」
「いやワニいなくても、落ちたら死んじゃうでしょうよ! この高さからじゃ何もわからないし」
「少し下がろう」
「うわっ!」今度は一気に急下降するアークの細い肩がこわれてしまうのではと自分で心配しながらもパメラは両腕で力の限りアークにしがみつく。
「こわい! こわいよアーク、スピードを落としてっ」
「ハイハイ、この辺でどう?」
アークに抱きかかえられたパメラは、だいぶ地上に近づいてはいたが、それでもまだ転落すれば命はない距離ではある。遠目には青く見えていた河にみるみる内に近づくにつれて河の色はにごりを帯びて灰色がかってゆく。川岸には指先ぐらいの人間も見受けられる。
「ナイル川が氾濫するする時期には河の色が真っ黒になるって聞いたことがある...ああ、いるいる、クロコダイル!」
「ワニが待ち受けている恐怖の淵へも飛び込んでいく...人間にはそういう愚かな一面があるものだよね」
「天使は違うの?」
「まあね...ぼくらにはそんな自由はない」
「え? あら、それはちょっとお気の毒!...かもしれないわね」
「いや、お気遣いなく。少なくともぼくはね、光を目指していればそれでいい。光の命じるままに、今もこうしてあなたと飛んでいる」
「どうしてまた、エジプトに...?」
「何か思い出さない?」
「いや質問で返されても...」そこでパメラは美術資料か何かで、ネコの仮面をかぶったエジプト人の姿。
「あたしには猫を大事にかわいがっていた友だちが...いたかもしれない」
「じゃあ、ぼくはいったんここで。バイバイ、パメラ!」
「え、うっうそでしょー?!!」
アークが一瞬で姿を消し、空中で支えを失ったパメラは真っ逆さまに落ちていくのだった。しかし落下速度が物理的に正しいものではなく、ゆるやかな浮遊感のある落ち方をしていることに気づくいたパメラは、まるで海の中のダイバーのように手足を動かしながら下降していていくのだった。